■2011年04月

■岩手のこと

岩手県から帰ってきた。

岩手での3週間は、2年以上の海外旅行に勝るとも劣らない体験だった。


水沢から車で陸前高田に向かうと、津波後初めてこの地を訪れる人の誰もが必ず仰天するポイントがある。
ループ橋を渡り、地震後真っ暗になったUの字のトンネルを抜け、山の中をしばらく走ると、突然にして現れる。
それまでは、道路に亀裂が入ったり波打ったりしている所が数ヶ所あるものの、道路脇の家や畑は何の変哲もない。
が、何の変哲ない景色のすぐ1m向こうに、突然にして瓦礫の荒野が広がる。
100 or 0
津波の被害を初めて見た。
それは私が想像していたよりもはるかに広い規模でメチャクチャ。
想像を絶するというのは、まさにこれだと思った。


私が居候していた友人にはまもなく2歳になる娘がいて、まだまだ手も目も離せないので、私は彼女の高校時代の恩師と一緒に、彼女の代わりに陸前高田で数日間物資を配った。
私と友人が預かったはカンパ金計234,705円は、あっという間に底を付いた。

運転してくれていた先生が香川に帰り、私はなすすべなく、しばらく友人宅でぶらぶらしてた。


自給自足のその家は大自然の中にあり、向こうの山まで視界をさえぎる物は何もなく、杉の林から花粉が煙のように流れているのが良く見えた。
海外ではよく、人の手が加えられていない天然に囲まれた場所に滞在したが、日本にもそういう所に住んでる人がいるんだなぁと友人の生活を感心。
テレビも電子レンジも無いけど、すごくホッとする生活。
家の周りに芽を出したノカンゾウやノビルを摘んだり、花をながめたり、ニワトリを観察したり、石器を拾ったり。


しかし、のんびり休養するほどの働きはまだしていない。
関東の車を持っている暇そうな友人を呼んで、わずかに残ったカンパ金で最後の物資を運び、そのあと一緒にボランティアで労働することにした。


ボランティアでは、遺体置場だった体育館を掃除したり、靴の仕分けと配布を手伝ったり。

靴の仕分けをしていて不思議に思った事がある。
空き地で仕分けをしていると、靴をもらいに来る人がいる。
小学生の男の子が来たので、私は他のボランティアの人がしているように、サイズを聞き、サイズごとに仕分けされたダンボールへ案内し、履いて選ぶように言う。
つま先のやぶれた靴を脱いだ男の子の足を見て驚いた。
靴下には大きな穴。
もう何日も履き替えていない様子の靴下はボロボロだった。

私はだいぶ前に、下着や靴下はもう充分すぎるほどあるので、それらの援助の申し出を市は断っている、と聞いていた。
なのにこの子は他の靴下を持っているようには思えない。不思議だ。

そこで、援助の内情にくわしい人に聞いてみた。
下着や靴下は配布されているのかと。

実際、市の倉庫には入りきらないほど物資はある。
しかしあるだけの下着を配ってしまうと、古い物はゴミになる。
ところがゴミ捨て場がない。だから配れないのだと。

他の人は言う。
物資はすべての被災者に均等に配らなくてはならない。
だから被災者人数分の同じ物資がそろわないと配れないのだと。

あきれた。


あきれついでにもう一つあきれた事がある。
ボランティアを統括する社会福祉協議会のやり方。

ボランティア希望者は、朝の9時にこの事務所に行き、仕事を割り当てられる。
この時点で仕事がなかったら帰される。
9時過ぎに事務所に行くと、9時に来なきゃ仕事は無いと帰される。
だから、ボランティアを必要とする人が9時過ぎに「ヘルプしてー!」と言っても、誰も来ない。

この非常事態に優雅なお役所仕事。とっても変。
だからこの機関は、被災者からまったく信頼されていないと聞く。


あきれる話しばかりではない。
すごく嬉しかった事がある。

私達のチームの最後の物資を届けたとき、申し訳なくも有り難い事があった。
野菜を届けたお礼に、ワカメとタコをいただいてしまった。
その集落はワカメの産地で、1年分を冷凍保存するのだが、停電で解凍されてしまった物らしい。
タコは大きな足1本だけ、ある業者がその集落に届けたのだが、集落全員が食べれる量ではないので困ってるところへ私達が来たらしい。
そして明日ついに1か月ぶりに電気が来る予定だといって、とても嬉しそうだったので、私達もその喜びのおすそわけにあずかった。
翌日、予定通りに電気は来た。良かった~。


地元の人と話をしてる時、私の頭は完全に外国語モード。
会話に知らない単語が頻発。

ワカメとタコをいただいた時は、仙台から里帰りしていた方に通訳してもらってようやく理解。

私の居候している友人宅の近所にある温泉施設は避難所になっていて、温泉に入っていると必ず話しかけられる。
湯船での話しは、個人的で具体的な内容になることもあり、
だいたいの話の流れはわかるけど、こまかい部分がわからず推測してるとそれが顔に出てるのか、
「言葉わかりますか?」と聞かれることもしばし。
「わかりません」と答えても、笑われて、話しは続く。


一緒にボランティアをしていた友人は、被災者から、こう尋ねられたという。

「私達が涙を流す時は、どういう時かわかりますか?」

「家族が死んだ事がわかっても、涙も出ません。
私達が涙を流すのは、行方知れずだった家族と再会できた時です。」

真実の言葉だと思う。


■最近の出来事

友人知人から預かったカンパ金は、野菜や化粧水や洗剤などを、陸前高田の小さな避難所に届けることで使い切ってしまったが、何日もここに通っていたので、この瓦礫の街に愛着がわいてきた。
あと少しこの街の助けになればと、お金は無いので労働することにした。
(それをボランティアというのかもしれないけど、私はこのボランティアというカタカナの日本語が、どうも胡散臭く感じる)

暇そうな関東の友人を助っ人に呼び出し、私の拠点の水沢から被災地までの毎日の運転をしてもらって6日間一緒に働く。

静岡からきたチームに飛び入りで参加した、遺体置場だった小学校の体育館の清掃は勉強になった。
「ボランティアは決して頑張ってはいけない。疲れきってる被災者のペースに会わせ、サポートするだけでいい。」
チームのリーダー的存在の男性の言葉が強く印象に残った。

ツイッターで呼びかけ、中古の靴を15,000足集め、避難所で被災者に配布する、という自己完結型援助の大技をやってのけた、陸前高田駅前で居酒屋を経営していた男性の手伝いは、主催者本人が被災者でなので参考になることが多々あり、また、彼の話しから当日の様子を詳しくうかがい知ることができた。
生死はまさに紙一重。
彼の店のお客様の1/3の人は、今だ連絡が取れないという。
地震時は営業していたので店にいた彼は、どうせ床上浸水くらいだろうと危機感も無くとりあえず家族の住む高台に帰り、津波後も、地震で割れたボトルのそうじのことを真剣に考えていたという。
想像を絶する津波が街を襲ったのを知ったのは、しばらくたってからだったという。
彼の店は跡形も無い。

被災者でありながら、被災者を援助する労働をしている人がいるとは思わなかった。
靴の仕分けを手伝いに避難所から来ていた中学生。
行政の動きの鈍さと法律が復興の妨げになっていることに業を煮やすボランティアセンターを手伝う人。
などなど。
そういう人達が復興の一番の理解者で支援者。
そして、被災地が今求めているのも、地元のボランティア。
自分達の地域は自分達で復興させたいと思っている人は多い。


私は無理せず出来ることはすべてしたので、そろそろ鎌倉に帰ろうかと思う。


次の日曜日に、私が居候している家のたまちゃんとその友人主催で、
「ミツバチの羽音と地球の回転」
という映画の上映会を近くの公民館で行うというので、ちょうど旬な話題の映画だし、それを観てから帰ります。
原発がなくても日本はやっていけるという趣旨の映画らしい。
坂本龍一、中沢新一、UAが、この映画にコメントしているので、ミーハーな気持ちで観てきます。

■余震

昨晩、余震があった。
前から不思議に思っているのだが、震度6もあったら、もはや余震ではなく本震ではないの?
(たまちゃん宅は震度5、陸前高田付近は震度6)

地震直後に停電し、今日の夕方に電気が来た。
携帯電話は、外を探せば電波の繋がる場所がある。

昨日はたまちゃんの家で、帰国してから初めて酔っ払う大酒を飲んでいて、地震の記憶があまり無い。
今の岩手で大酒は危険だな。
電気で井戸水をくみ上げるたまちゃん家で、二日酔いに飲ます水など無いな、と心から反省。

企業や団体が、物資の援助に動くようになったと聞く。
私はペーパードライバーで、一人じゃ物資も運べない。
しかも預かったカンパ金はとっくに底をついていて、個人の支援の限界に業を煮やしていたので、
団体が被災者支援をはじめたと聞き、少しは状況が改善されることを期待している。
被災者全員が、早く1日3食食べれるようになって欲しい。



■岩手気質

町内会の集会所のような小さな避難所に、数10人から多いところで150人が暮らす。
日々少しづつは他の町の親戚の家などに移っていて、避難所の人数は減っては来ているのだが、それでも莫大な人数が避難所で暮らす。
聞くところによると、このあたりでは「結っこ」という近所の連帯を大事にする感情があり、近所の人をおいて自分だけ他に避難するのに抵抗があるという。

小さな避難所へは物資を届けても「うちは大丈夫なので、もっと困っている所へ持って行って」と言われることがほとんど。
ある人はそういう避難所へ3日間通ってようやく、避難者が米だけしか食べていなく、物資がちっとも足りていないことを知った。

岩手の人は奥ゆかしくとても遠慮がち、というか遠慮は美徳と考えられていて、そして自分のことより人の心配をする。
私が長年住んだ東京とは気質が違う。

そういう地域性を知ることが、よそ者が支援にきた時の、初めの一歩だと思う。

■援助物資

被災地では、援助物資は市役所の管理で、そこから各避難所へ分配されるようなのだが、
陸前高田の場合、その市役所が全壊し、職員の多くが亡くなった。
役所からの援助物資が届かず、被災者はかなりのご苦労をされたと聞く。
今は高台に移った仮設市役所がだいぶんと機能するようになり、役所近くの避難所には物資が届くようになったものの、
市役所での食品の受付は、レトルトと缶づめで、野菜は扱っていない。

避難所では自炊が始まっている。
が、野菜は届かない。

自炊して、風呂にも入って、化粧水使って、酒の一杯も飲んで、プライベートな場所で寝て、
そういった日本での日常の最低限の生活が、まず戻るよう願う。


■陸前高田

4月2日

陸前高田の道が軽い渋滞をしていた。やけに他県ナンバーの一般車が多い。
今日は土曜日。観光客もかなり来ている模様。

陸前高田まで車で2時間のたまちゃん宅の近所で購入した、昨日リクエストの多かった消毒ジェル・洗剤等と、風呂の作者佐藤先生が香川県の農家からいただいた野菜を、小さめの避難所に届ける。

その後大人&子供用紙おむつ等を、テレビでよく見ていた陸前高田で最も大きな避難所へ届ける。
1,500人が暮らす第一中学校避難所には、災害後初めての仮設住宅が建設されているが、とうてい足りるような数ではない。
名前を忘れたが、釜石出身のミュージシャンがライブをしていた。
ここでは医療や支援物資や面会が、事務的に上手に組織化されているように思えた。
物資を持ってきている各地のナンバーの一般車で駐車場は満車。
東京から援助物資を運んできたイラン人グループにも遭遇。
マスコミもちらほらいる。

風呂の設置は40人が暮らす小さな避難所。
小さな建物の避難所と言ったほうがいい。
部落の元「集会所」は、40人が暮らすにはとても小さい。
佐藤先生が持ってきた大量の老眼鏡が、たいへん喜ばれる。
めがねが無いので、新聞の死亡者名が読めず苦労した話しには、ただうなずくしかなかった。

風呂のお礼に、避難所の夕食を御馳走になる。
被災者への面会は外で、と、張り紙があるし、食材不足は知っているので、一緒に食事をどうぞとのお誘いは、初めはお断りしたのだが、それでも強くお誘いいただいたので、お言葉に甘えた。
食材不足。
米は茶碗に一杯普通盛りだが、おかずの量が少なすぎる。
私達はこの後帰れる所があり、たまちゃんの作った晩御飯をたらふく食べれるので、本当に申し訳ない。
しかし声をそろえて、晩御飯食べてといってくれる被災者の方のやさしさに恐縮。
今日はおやつの日で、缶ドリンクとお菓子の入った袋が、一人一人に配られていた。

帰るころに雪が降ってきた。



今の必要品、野菜・洗剤・クレンザー・化粧水・ハンドクリーム・爪きり・仮設住宅。

■陸前高田へ

28日
元リサバーのアルバイト娘かのちゃん幹事で、おかえりなさい&いってらっしゃい会を新宿でやってもらう。
昼過ぎに鎌倉から新宿へ。
幹事かのちゃんと、私がこれから向かう岩手のたまちゃんは高校の同級生。
2人ともリサバーを手伝ってくれていた。
たまちゃんに頼まれた品を新宿で買い、夜8時、会へおもむくと、すでに20人ほど集まってくれていた。
岩手まで行く夜行バスの待ち時間、久しぶりの面子の顔を見て、旅行中の2年3ヶ月という期間が無かったかのように、まるで昨日までリサバーがあったような錯覚におちいる。
ほとんどの人とじっくり話す間もなく、カンパを募り、夜行バスに乗る。
突然の急な召集にもかかわらず、24人の方に出席いただき、192,705円のカンパ金を預かる。

29日
早朝6時、岩手県水沢に到着。
迎えに来てくれたたまちゃんの御主人の車で、たまちゃん宅へ。
途中の開店前のガソリンスタンドには3キロメートルほどの長い車の列。
前方の車は凍っていた。
たまちゃん宅は電気はきている。
地震から丸3日間は停電だったと聞く。
水は井戸水だが、ポンプでくみ上げているので、停電だと断水になるという。
ガスはプロパン、暖房と風呂は薪なので、まったくもって不自由なし。
テレビで見た被災地の近くとは思えないほど快適。
そして、たまちゃんの友人から届いた支援物資の仕分け。

30日
ぞくぞくと支援物資が届くので、仕分け。
前日に東京から送ったものが翌日届く。

31日
たまちゃんの高校時代の恩師佐藤先生が、軽トラに、自作の一人用移動式風呂と香川県の農家からいただいた野菜と生徒から預かった支援物資を積んで到着。
先生の話しでは、高速道路沿いのガソリンスタンドは長蛇の列だったが、私が29日に見たスタンドは、それほど並んでいなかったという。

4月1日
先生と一緒に、支援物資を積み大被災地・陸前高田へ状況を見に行く。
ガソリンスタンドはガラガラ。1ℓ150円。
地理と被災状況に詳しいたまちゃんの知人の陸前高田の隣町のシュウヘイ君を途中ピックアップし、道案内してもらう。

陸前高田の町は突然にして無になっていた。
極端に言えば、町は0か100かで分かれている。
津波が襲った所はキワまで壊滅。ガレキしかない。
キワから道路1本、ほんの2メートル奥は無傷に見える。
海岸から6kmまで壊滅。
海沿いにポツリと残った5階建てのマンションの、4階までは全窓ガラスが無く室内はどろどろ、5階の窓ガラスは残っていて無傷に見える。
海沿いのスタジアムの、ナイター用ライトまで波が来たときいた。
あまりの高さまで波が来たので、海岸線の名物松林の松は、波の勢いではなく、浮力で根こそぎ浮き上がり流されたという。
驚いたのは、山間の被害。
河を逆流して津波が襲い、まさかこんな山間まで津波が来るとは予想だにしなかった住民が逃げ遅れ、海沿いよりも死者が多い。
海岸線近くにある、今もガレキの中ににょっきり立っている「津波想定区域ここまで」という道路標識をはるかに超える被害を見て、今回の被害は想定外だったのだとあらためて知る。

たまちゃんが集めた支援物資はかなりの量になるが、それでも大きな避難所に渡すほどの量がないので、小さな避難所へ向かう。
電気はかなり復旧している。
が、断水。
携帯電話はつながる。
町の小さな神社に150人が暮らす。信じられない。ここに150人?!
民家の避難所を援助する予定だったが、民家のようなの小さな神社の避難所に150人いる。
今日訪れた小さな避難所はすべて100人以上が暮らしていた。

避難所によっては、被災者が冗談を言って笑いあってるので、援助も、その時期と状況に合ったものが必要だなと感じる。
今日求められた物、
・大きいポリタンクに入った飲料水
・野菜・魚
・手を洗わないでも消毒できる物
・洗濯洗剤
・仮設住宅
同行してくれたシュウヘイ君は、ちょこちょここれらの避難所を訪れているが、日々必要な物は変化しているという。
支援物資は届いているけど、偏りがあるからではなかろうかと思う。


明日は依頼を受けた避難所へ、佐藤先生・シュウヘイ君と一人用風呂を設置に行きます。
避難所内は禁酒だと聞きましたが、こっそり飲んでる人もいるらしいし、お酒は一般の援助物資にはなさそうだし、少し飲んでストレスを解消なされたほうがいいのではないかと判断し、明日私はリサバーカンパを使って、飲料水・野菜・消毒グッズ・洗剤・お酒をお届けする予定です。

リサ婆

カレー屋歴半年未満
バーのママ歴
中野で4年
歌舞伎町で12年
海外旅行歴
人生の中で延べ約4年
約50ヶ国
春から間借りでカレー屋を始め、現在奮闘中。

!注意!お願い!
本文中、イスラム教を国教とした国の事を「イスラム国」と書いたのがたくさん出てきますが、それを書いた時点ではまだイスラム国(ダーイッシュ、ISIS)が無かったため、そのような表記になっております。
ですので本文中にある「イスラム国」は、ISISとは関係なく「イスラム教の世界」「イスラム教を国教とする国」というニュアンスでお読みください。

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